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沖縄



沖縄問題と新日本国軍

先の記事(「旧日本国軍の総括」)で、pfaelzerweinさんより、以下のようなコメントをいただきました。昨日はブログを覗かなかったせいもあり、返事が遅れました。また、雑用で十分な時間がとれなかったこともあり、正確な必要十分な応答になっているかわかりません。ただそれでも、各論点ごとについて、とりあえずのご返事だけでもしておきたいと思います。
さらに論点の深まることを期待します。

①pfaelzerweinさんのコメント

沖縄問題を通した見解 (pfaelzerwein)

2007-10-14 17:07:43

A
ここに示されているのは、沖縄問題を通した、戦後処理への見解と、その国家観と思われます。

幾つかの疑問点を議論のために手短に挙げておきます。

「旧日本軍隊と県民一心同体となって敵国アメリカと戦っていた」のが事実でないとするのがこの問題の端緒ですね。つまり、本土民と琉球民の視点の差です。つまり、同じような差を朝鮮人や台湾人に認めるかどうかの疑問ともなります。そのような視点の根拠は何処にあるのか。その国家とは、民族的なものなのか、歴史的なものなのか、それとも?
B
「完全に民主化された新日本国軍」は、民主的な日本国とその機構に準拠しなければいけませんが、その民主性は、「名誉の死」に殉じた人や当時の軍人や旧日本軍の名誉を一切認めない事ではないのか?つまり、歴史的な敗北を帰した責任こそ問われこそすれ、イスラムテロリストと変わらない国家主義に身を投じたもの達を賞賛するのは誤りではないか?そこでは犠牲となった幾多の個人を指すのではなく、その各々の集団を指す場合、虫けらのように殺害された敗者達を尊敬するべきだろうか?

C
もし、当時の国家主義を根拠にそれを認めるというならば、それを根拠にした朝鮮人や台湾人の軍事恩給や慰安婦を含む国家奉仕の保障問題をどのように捉えるのか?

D
「日本社会党の非武装中立政策を現実的ではない」のと同じように「民主的に成熟した市民統制のとれた民主的な国軍」もただの夢想ではないのか?

E
そもそも、「高貴な犠牲的愛国心」こそ国家主義の賜物で、こうした国家主義を肯定する姿勢は民主主義に相反しないのか?歴史を顧みて尊重する姿勢を採るならば、戦後民主主義体制こそそれまでの歴史を総括したものであり、それを蔑ろにして歴史を顧みる価値はないのではないか?

F
最後にこの問題への私見を加えますと、沖縄は現在も米軍基地問題を主要な政治主題としているようですが、それならばその彼らの理想は、日本国軍の駐留なのか、台湾軍なのか、中共軍なのか?今でも、戦略的に見て米軍が最も信用出来る好意的なパートナーであるように思うのですが、どうでしょう。


②私の考え
A
この問題については、歴史をどう見るかですが、「現代人の視点、価値観をもって、過去の歴史を断罪するようなことがあってはならない」ということが眼目です。

大日本帝国憲法下の日本国統治についても、民主主義の観点、立憲君主制の観点からいっても、その立憲性の民主主義的性格にきわめて大きな欠陥があったのは事実であろうと思います。それゆえにこそ、軍部の独走を抑止することも、開戦を回避することもできませんでした。

「旧日本軍隊と県民一心同体となって敵国アメリカと戦っていた」
というのは事実としてそうであったということであって、それについての価値判断は別です。

旧日本国軍隊は、天皇制全体主義の体制で「一心同体」であったので、その性格は、民主主義の観点からは、軍隊の統帥権が首相に属していないという限界がありました。

大日本帝国憲法下の行政を、戦後の日本国民が民主主義の概念から批判的に総括していないこと、その能力のないことが問題であると思います。それが、沖縄問題や台湾問題、朝鮮問題に今なお決着をつけられず、清算できないでいることの根本原因であると思います。

なお、理論的には現代国家は民族や歴史をアウフヘーベンしているものです。


B

もっとも端的な例は、互いに正々堂々と戦い抜いた敵に対する敬意と本質的には同じです。
信じる対象や価値観は異なってはいても、それに忠実に誠実に純粋に献身した者に対する敬意です。

C
当時の国家主義を根拠に認めるのではありません。「朝鮮人や台湾人の軍事恩給や慰安婦を含む国家奉仕の保障問題」を含めて、戦前の国家体制を清算できないでいるのは、現代日本国民と国家の民主主義的な未成熟にこそ問題があると考えています。


D
「民主的に成熟した市民統制のとれた民主的な国軍」は夢想であるとは思いません。夢想に終わるか現実になるかは、教育と指導者と国民全体としての資質の問題であると思います。

E
戦後民主主義の欠陥の核心は、この戦後民主主義には「国家意識」が完全に欠落していることです。戦後民主主義のこの特異性のゆえに、それが自明に思われています。ここに戦後の日本国民の倫理的な退廃の根源があります。

F

現代日本国の最大の悲惨は、pfaelzerweinさんがおっしゃられているように、沖縄県民にとって日本国軍の駐留ではなく「米軍が最も信用出来る好意的なパートナーである」と見られているこの日本の現状です。
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by aowls | 2009-06-27 12:18 | ア行

イージス艦



映画「亡国のイージス」を見る

6月14日のテレビで「亡国のイージス」という映画を見た。もちろん、娯楽作品ではあるけれども、曲がりなりにも、わが国の国防についての問題提起をおこなっている作品であるとは言える。言うまでもなく、イージス艦はレーダーや最新の情報処理システム、対空ミサイル・システムなどを装備した現代科学の粋を集めて建造された艦艇である。

しかし、イージス艦のように、たとえどれだけ軍事科学の粋を集めて建造された軍艦といえども、それは守るべき価値ある国家、国民が存在してこそのイージス艦であって、この前提のない国家国民が所有する軍艦など、軍事産業屋の金儲けのネタか軍人の高級玩具になり終わるにすぎない。

根本的に重要なことは、価値ある国家の形成、守るに値する文化、伝統、自由を尊重する人間の存在である。戦後民主主義の日本人には、せいぜい守るべきものがあるとしても、それは営々と蓄積してきた富のほかにはないのではないか。たしかに、多くの人間にとっては、富のみが守るに値する。

映画「亡国のイージス」が公開された2005年は、戦後60年という巡り合わせもあって、「男たちの大和」「ローレライ」などの軍隊物映画が公開され、その後も「出口のない海」などの戦前の日本軍を回顧するような作品も発表されている。このような傾向を、日本の「右翼化」として「憂慮」する人たちもいるようである。

しかし、戦後60年が経過して、文化の植民地化が徹底的に浸透した現代の日本においては、戦前の日本を描こうにも、それを演じきれる人間、俳優がいない。香港やフィリッピンその他かつての被植民地などに多く見られる、無国籍アジア人の体質をもった俳優には、戦前の日本人やまして旧大日本帝国軍人などはもう演じられなくなっている。そこまで文化的な断絶が深くなっているということである。
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by aowls | 2009-06-21 16:10 | ア行

イギリス

「日本国の概念」とイギリス
2006年11月20日
http://anowl.exblog.jp/4351568

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日本国は日本国であって決して英国ではない。しかし、英国と日本とは、ユーラシア大陸を挟んで極東と極西と地理的には正反対に位置するけれども、同じ立憲君主国家であり、大陸の周辺国家であり、また島国であるなどの類似点も多い。

なぜこのようなことを言うかというと、今日の日本国の現状は周知のように教育亡国、政治亡国の瀬戸際にあるからである。それらは日本国民の教育や国家意識など多くの点で、太平洋戦争における日本の敗北の結果としてもたらされた国家概念のゆがみと、その戦後政治体制の行き詰まりに起因していると考えられるからである。そうした状況から脱却してゆくうえで、明治維新に伊藤博文などが欧州に国家観を学んで新しい日本の国家体制を確立したように、まだなお多くの点で英国などの国家体制を参考にできるし、すべきであるからである。

英国は、日本のように第二次世界大戦で敗者として、政治的にも文化的にも外圧的に国家体制の強制的な転換を余儀なくされることもなく、今日に至っている。また、明治維新のように、黒船などの諸外国の暴力的な圧力によって強制的に開国されることも文化的な断絶を国家として経験することもなかった。それゆえに英国などは、私たちがオーソドックスな国家の概念を考える上で参考になる。

自由で独立したあるべき正しい国家概念を、そうしてまず日本国民が日本国の再生のためにしっかりと自覚し、目的としてゆく必要がある。その際に英国やスイスなどの国家体制は参考にしうる。

まず第一に、自由で独立した国家として英国やスイスは、その国内に日本のように外国駐留軍を置いていない。日本国民のモラルの退廃の一つの原因としてアメリカの駐留軍の存在が大きいのである。

もちろん、政治的には今すぐには在日アメリカ駐留軍の撤退を実現させることはできないが、それは国民の「悲願」であるべきである。国内に外国の軍隊が駐留していることを国民は恥じるだけの誇りを持たなければならない。

いつの日か、アメリカ軍にお礼を言って国内から帰ってもらい、日本人自身の手で、国家と国民の安全を確保できるようにしてゆくことである。そして、アメリカとは現在のような半植民地のような従属的パートナーの関係ではなく(それは現行「日本国憲法」による国家体制の必然的な帰結によるものであり、また、アメリカの国際戦略の一環でもある。)、イギリスのように、より対等な同盟国家関係にしてゆく必要がある。

そのためにも防衛庁は国防省に、自衛隊は国防軍に改組し、さらに必要とあれば、自発的な兵役の義務も国民に復活させる必要があるだろう。また、国家情報機関も強固な組織に編成する必要があるかも知れない。

そして、そのために何よりも大切な前提としては、現在の日本の自由民主党や民主党などの政党で行なわれているような偽物の自由と民主主義ではなく、イギリスやスイスで行なわれているような自由と民主主義についての真正の自己教育を国民一人一人に実行してゆく必要がある。


2006年11月20日
②20080910
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by aowls | 2008-09-10 12:55 | ア行

永遠

永遠の今
2008年09月08日 / 宗教・文化
http://anowl.exblog.jp/8576586/

さきに福田首相が辞任を表明されたとき、ご自身のメルマガでの中で、「太陽と海と伊勢神宮」に触れ、「永遠の今」について語られようとした。魑魅魍魎の徘徊する政界の、虚妄と有限の地獄図に嫌気がさした福田氏の心のなかに、このとき潜んでいた菩提心がふと思わず顔を出したのかもしれない。

「太陽も海も伊勢神宮」も、もちろんすべて「真に永遠なるもの」ではない。それらも所詮はその影にすぎない。真に永遠なるものはただ神のみだからである。というよりも、私たちは真に永遠であるものを神と呼ぶのである。だから、真に永遠であるものが存在しなければ、神も存在しない。

政治という有限と虚妄の世界に疲れ果てた福田氏(「公共と家政」)が思わず口にされた「永遠の今」とは、無限が有限に自己を啓示する瞬間であり、有限が無限を垣間見る瞬間の事である。無限と有限とがきびすを接する瞬間が「永遠の今」である。このとき、人間は神を見、神はご自身を人間に啓示する。芸術も哲学も、この永遠なるもの、神を見ようとする人間の切ない憧れを示す試みである。

そして、この永遠なるものに、神にささえられたときにはじめて、「有限なる今」も政治もまた空しいものでなくなる。

福田氏が総理大臣の職を辞するに当たって、「政策を立案する際、この「永遠の今」を想うことがありました」と言うとき、思わずこの「想う」という言葉をつかったのも、決して偶然ではない。福田氏は政治という虚しくはかない今に耐えきれず、思わずそれを「永遠」という堅い杭につなぎ留めようとしたのである。たとえただ、それが「永遠なるもの」の影にすぎなかったとしても。
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by aowls | 2008-09-09 14:13 | ア行