イージス艦



映画「亡国のイージス」を見る

6月14日のテレビで「亡国のイージス」という映画を見た。もちろん、娯楽作品ではあるけれども、曲がりなりにも、わが国の国防についての問題提起をおこなっている作品であるとは言える。言うまでもなく、イージス艦はレーダーや最新の情報処理システム、対空ミサイル・システムなどを装備した現代科学の粋を集めて建造された艦艇である。

しかし、イージス艦のように、たとえどれだけ軍事科学の粋を集めて建造された軍艦といえども、それは守るべき価値ある国家、国民が存在してこそのイージス艦であって、この前提のない国家国民が所有する軍艦など、軍事産業屋の金儲けのネタか軍人の高級玩具になり終わるにすぎない。

根本的に重要なことは、価値ある国家の形成、守るに値する文化、伝統、自由を尊重する人間の存在である。戦後民主主義の日本人には、せいぜい守るべきものがあるとしても、それは営々と蓄積してきた富のほかにはないのではないか。たしかに、多くの人間にとっては、富のみが守るに値する。

映画「亡国のイージス」が公開された2005年は、戦後60年という巡り合わせもあって、「男たちの大和」「ローレライ」などの軍隊物映画が公開され、その後も「出口のない海」などの戦前の日本軍を回顧するような作品も発表されている。このような傾向を、日本の「右翼化」として「憂慮」する人たちもいるようである。

しかし、戦後60年が経過して、文化の植民地化が徹底的に浸透した現代の日本においては、戦前の日本を描こうにも、それを演じきれる人間、俳優がいない。香港やフィリッピンその他かつての被植民地などに多く見られる、無国籍アジア人の体質をもった俳優には、戦前の日本人やまして旧大日本帝国軍人などはもう演じられなくなっている。そこまで文化的な断絶が深くなっているということである。
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# by aowls | 2009-06-21 16:04 | 第二部 客観的精神

この一年を振り返る

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今年も今日で終わりです。この一年を振り返ってみても、残念ながら決して大きな進歩があったとも言えません。それは個人的にも社会的にもそうでした。

それでも小さな成果があったと言えば、今年になってニンジン、ダイコン、生姜、タマネギなどの野菜を、はじめて自家製で食卓に上らせることができたことでしょうか。農作業にかかわり始めてまだわずか一年の初心者ですが、果樹も本当に最初の一歩で、イチジク、モモ、柿などを植えました。もちろん果実を収穫できるようになるのは、もっと先のことで、それも柿の根づけすら第一年目のハナから失敗しました。

本当はもっと若い時から、自分のめざすべき道を進みたかったのですが、しかし、後悔先に立たずですから愚痴を言っても仕方がありません。生活のスタイルを新しく作って行くしかないようです。

この秋に始まった金融恐慌の嵐は、今も吹き荒れています。トヨタやホンダなどの自動車会社は、好況時には兆単位の収益を上げておきながら、いったん不況になると、真っ先に人員解雇を行っています。

こんなことでは、どんなに魅力的な自動車をこれらの会社が生産していようが、社会的にはまったく「つまらない会社」と言うしかないでしょう。人々の労働力を活用し利用して儲けていながら、不況時には冷たく従業員の生活手段を奪うことに何らのためらいもないようですから。現在の株式会社が雇用よりも利益を優先する社会的組織であることがこうしたことからも明らかです。これらの会社の株主たちも、また、いわゆる「正社員」たちも、配当や利ざやや自分たちの給料が肝心で、臨時社員の生活などどうでも良いのでしょうか。

これもやはり日本にはまだ本当の宗教が支配的な社会にはなっていないからです。政府は言うまでもなく、国家にも国民の間にもまだその精神が十分に浸透していません。それを実現するのもまだはるか遠い先のことかも知れません。しかし、いずれにせよ、願うことはこの日本国が世界に先駆けて、失業や貧困の不自由から解放された国家になることです。

来年は個人的にはさらに農的生活の方面をさらに充実させていきたいと思っています。できれば、生活の場もさらに農村地域に移せれば良いのですが。昨今の中国製の食品の安全性や畜産飼料の価格の高騰などによって、私たちの生活の根本である食料に問題のあることもわかっています。日本の食糧自給率なども話題になりました。それらは国民のすべてが食料生産に携わるようにすれば解決することだと思いますが、それにしても現在のあまりにもずさんで有害無益の農業政策を転換してゆくことでしょう。もはや現在のように、無能な政治家や官僚たちに任せていればいいという段階ではないようにも思います。自分たちでみずから行動してゆくことでしょう。

この国を少しでも良い国にして行くために、農業の現状など、さらに理論研究を深めてゆく必要もあります。また、たんに理論のみならずNPOなどで志を同じくする人々といっしょにその可能性を追求してゆくべきかもしれません。来年は少しでも夢が深められ、一歩でも前に進むことができますように。

袖触れ合うも他生の縁とも言います。この一年、つたなき当ブログを訪れてくださったみなさん、来年も良いお年でありますよう。
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# by aowls | 2008-12-31 14:20 | 第三部 概念論

ヒヨドリバナ

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今日から十月、神無月である。神無月とは日本全国の神社に祭られている神々が、この月に出雲大社に集まるためにいなくなることに由来するそうだ。その真偽はとにかく、そこに古来からの土着的な宗教の起源について何らかの真実が語られていそうで奥ゆかしい。

陽暦ではただの10月で数字の順位が示されるだけで味も素っ気もないけれど、歴史的にはそのほとんどを陰暦の下に暮らしてきた日本人にとっては、当然のことながら、その呼称の裏には人々の季節感や生活感、自然観が籠められている。

陰暦の月呼称と別称
http://www.taka.co.jp/okuru/engi/inreki01.htm

はるか昔、出雲地方から日本全国に散らばった豪族たちが、自分たち氏族の出自と団結を確認するために、年に一度自らの出身地に帰り集結するという、民族の遠くはるかな記憶がそこに刻み残されているのかもしれない。

山畑へ行く。青紫蘇がいよいよ薹がたち実を付けはじめて、もはや柔らかく薫り高い若葉がなくなり始めて残念に思っていたところ、青紫蘇の実がいい佃煮になり鉄分も豊富であることを教えられた。それで、ざるに一杯ほど摘んで帰ることにする。

自宅に戻ってから、その青紫蘇の実を採っていると、指先が濃い茶色に染まるほどだった。それは葉や実に含まれる鉄分によるものかもしれないと思った。そして、教えられたとおりに、油と醤油と酒と味醂で――あいにく切らしていたので黒砂糖を代わりに、佃煮にした。

美味しいご飯に合う。鉄分の不足しがちだといわれる日本の女性におすすめかもしれない。今年の夏、この青紫蘇は冷や奴などにもよい香りを添えてくれた。

また、それほどたくさん育ったわけでもないけれど、小さな畑の一角から葉生姜を引き抜いて帰った。洗ってそれに八丁みそを付けて食す。ささやかな山の幸であり味わいではある。
はたして、いつの日か本格的に農に打ち込める日は来るのだろうか。それも神様の思し召ししだいか。

何をきっかけに見て知ったのか、アフリカの若い娘から詐欺メールが届いていた。さまざまなところから送られてくるスパムメールに現代人の精神状況の一端が知られる。最近の犯罪も「ネット文明」と決して無関係ではないと思う。それは人間を獣性に駆り立てる。

[短歌日誌]①2008/10/01

山合の道を歩いているとき、白い素朴な花に出くわした。一見フジバカマの風情で一瞬歓んだけれど、色が白くて赤みがない。花先が絹綿のようでふっくらとしているからオトコエシのようにも思われない。家に帰ってからネットで調べてみると、どうやらヒヨドリバナと言うらしい。その呼び名は可愛いけれど、花の姿とどうしても結びつかない。ただ、暮れなずむ山野の中で、その野草の花の白さだけが印象に残った。



初秋の人影もなき山野辺に名も知らぬ花の潔く白けし
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# by aowls | 2008-10-01 15:41 | ハ行

自然農法

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福岡正信氏の自然農法

福岡正信氏は「自然農法」と呼ばれる独自の農法の実践者、主唱者として知られている。自然農法とは、「耕さず、田植えをせず、直接モミや種を蒔いて、米と麦の二毛作をし、化学肥料も施さず、除草作業もせず、農薬も使わない」という極めて簡単な農法である。肥料の代わりにワラを敷き、耕作する代わりにクローバーの種を蒔く。

もちろん福岡正信氏もはじめから自然農法の実践家であったわけではない。氏は岐阜の高等農業学校を卒業し、植物病理の研究から出発して、税関で植物防疫に従事している。だから福岡氏の自然農法にはその前提に植物学という近代科学の素養があるといえる。しかし、若いころ自身の病気をきっかけに現代の科学について根本的な不審を抱くようになった。

おそらくこの頃に、福岡氏は、荘子の「無為自然」、「無用の用」の境地を直観的に体得されたのだろうと思う。自然は無為にして完全であるから、荘子が指摘したように、ひとたび人間が道具を作り、井戸水を汲み上げるのに滑車を使うように、分別智を働かせて道具を使うようになるともはや元には戻れない。もともと完全なものを一度分断、分析し始めると、すべての肯定の裏に否定が現れて、パラドックスに陥る。福岡氏はこのことを直観的に悟られたのだろう。

福岡氏は、若いときに体験した自身のその直観の正しさを証明すべく、人為を加えない農法を、自然農法を生涯に追求しようとしたのだ。無為自然こそが絶対的な真理であることを直観した若き福岡氏は、「何もしない農法」はいったいどのようにして可能か、という問題を生涯をかけて追求したのである。それが氏の自然農法だった。そして、やがて到達したのが、冒頭に述べたような、米麦不耕起連続直播、無肥料、無農薬、無除草の農法である。しかし、この自然農法も永遠に研鑽途上にあって、完成されたわけではない。

現代の石油エネルギーを使って行われる現代農業が多くの問題を抱えていることは語られはじめてすでに久しい。それらは温暖化や砂漠化を招いている。現代農業は商業的な大量生産を目的とするから、そのために農薬や化学肥料を使わざるをえない。そこには多くの矛盾が生じている。また、これまで日本の農政は、国際分業論に立って減反政策を進めてきたが、そのため食料自給率の低下を招く結果になった。そして今、世界的な食糧危機の到来を予感してあわてふためくことになっている。肯定の裏にかならず否定が生まれてくる。これは何も現代の農業だけに限られない。現代物理化学の粋を集めて応用される原子力発電においても、また、遺伝子工学の応用によって遺伝子の改造から治療をはかろうとする現代最先端医学の領域においても同じである。すでに人類はやがてそれらの行き着く先に漠然とした不安を感じている。悟性科学には矛盾を克服できないことを予感しているからである。

要するに、そこにあるのは分別知にもとづく、現代科学のもたらす矛盾である。「無の哲学」の見地からこうした近現代科学の将来を福岡氏ほど明確に予見していた人はいないかもしれない。それは、人為は自然に必ず劣るという福岡氏の確信であり世界観によるものである。福岡氏においては、自然は神と同等と見なされている。氏にとって、自然は完全であり、したがって一切無用である。有限の存在である人間の見て行う世界は、完全なものを分解し分析した部分でしかないものであり、必ず不完全なものである。そこで、氏はすべての人為を捨て、完全な自然に同化して、自然に生かされる生き方の道を歩むことになる。

一切無用として出来うる限り人為を廃し、自然の豊かさにしたがって自己を生かそうとする福岡氏の自然農法は、やがて、とくにその搾取によって土壌が疲弊しきった欧米の農業家の着目するところとなったようである。日本はそれでも自然がまだ豊かであるから、行き着くところまで行き着いておらず、福岡氏の自然農法に対して切実な欲求をもつに至ってはいないのかもしれない。その点でも、福岡氏の農法は日本よりも欧米で受け継がれてゆくのだろう。

福岡氏の自然農法は「無の哲学」に基づいたものである。それは人間の知識や科学を本質的に否定するものである。氏の思想と哲学は、物や人智の価値を否定する。だから現代人や現代社会の立脚点とは根本的に相容れないものである。それはちょうど、「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず。野の百合はいかに育つかを見よ。労せず、紡がず。さらば、汝ら何を喰い、何を飲み、何を着んとて思い煩うな」と命じたイエスの生き方と同じく、現代人は厳しく重荷に感じて、もはや誰一人として実行できないでいるのと同じである。おそらく、福岡氏の自然農法の真の継承者はいないのだろうと思う。

しかし、現代科学が、そして現代農業が行くところまで行き着いて行き詰まったとき、無の哲学から現代文明を批判した福岡氏の自然農法は、未来の農法として復活するかもしれない。そのとき福岡氏の自然農法は未来のあるべき農法として、人々にとって灯台の役割を果たすだろう。しかし、それは現代人の価値観が根本的に転換するときである。

福岡氏は理想の生活を次のように描いている。

「無智、無学で平凡な生活に終始する、それでよかった。哲学をするために哲学をするヒマなどは百姓にはなかった。しかし農村に哲学がなかったわけではない。むしろ、たいへんな哲学があったというべきだろう。それは哲学は無用であるという哲学であった。哲学無用の哲人社会、それが農村の真の姿であり、百姓の土性骨を永くささえてきたのは、いっさい無用であるという無の思想であり、哲学であったと思うのである。」 (『自然に還る』P204)
「小さな地域で独立独歩の生活をする。家庭農園ですべての事柄が片づいてしまう。
自然農園づくりが、外人にとっては、もう理想郷(ユートピア)づくりになっている。・・オランダの牧師さんが、家庭の芝生を掘り返し、家庭菜園を作り、そこにエデンの園を見出す。」 (P297)
「一人10アール・一反ずつの面積はあるわけだから、みんなが分けて作って、機械を使わずに、そのなかに家も建て、野菜から、果物、五穀を作って、周囲の防風林代わりに、モリシマアカシアの種子を毎年一粒ずつ播くか、苗を一本植えておけば、十年後は石油が一滴もなくても、年間の家庭用燃料は十分間に合う。
ですから、自然農法は、どちらかというと、過去の農法ではなくて、未来の農法だとも言えるんです。田毎の月を見て、悠々自適ができるような楽しめる百姓になる。家庭菜園即自然農法即真人生活になるのが、私の理想です。」 (P291)

このような福岡氏の理想は確かに共感できる点は多い。しかし、福岡氏に接した多くの人が語るように、とくに西洋人が多く語るように、氏の自然農法には共感できるけれども、氏の「無の哲学」に共感できないと言われる。私も同じである。なぜなら、福岡氏の「無の哲学」にかならずしも同意しないからである。あえて言うなら、私の立場は「無の哲学」でもなければ「有の哲学」でもなく、「成(WERDEN)の哲学」であるから。これはヘラクレイトスの万物は流転するという世界観でもある。

本当の自然とは何か。私は福岡氏の自然農法自体をかならずしも自然とは見ない。逆説的に言えば、福岡氏の「自然農法」自体が不自然農法である。むしろ、深耕、農薬、化学肥料などの人為、不自然こそが自然であるとみる立場もある。

当然のことながら多くの欠陥を抱えた現代農業は、いずれ克服されてゆくべきもので、それは現在の科学が発展途上にある未完成品であるというにすぎない。それは悟性的科学であって、理性的科学ではない。ただ理性的科学は、ゲーテのいう「緑の自然科学」に近く、この観点からは、福岡氏の自然農法は高く評価すべき点をもっている。理想は近くあるとしても、しかし、福岡氏の「無の哲学」は、否定を媒介にしない。この点に根本的な差異がある。福岡氏の「無の哲学」は直観的で、何より否定という媒介がない。

また、福岡氏の思想と哲学の限界としては、氏の自然農法には国家や地域社会、市民社会との関係を論じ考察することがあまりにも少なかったと思われることである。要するに媒介がなかった。個人的には私は福岡氏が理想としたような皆農制を基本的には支持する立場である。しかし福岡氏は、民主国家日本において、皆兵制については論じることはなかった。しかしいずれにせよ皆兵制や皆農制などの問題は、すでに国家論や憲法論に属する議論である。それらの問題はまたの機会に論じることがあると思う。

ここ十年ほど、福岡正信氏の動向はほとんどわからないままだった。と言うのも私は氏の「自然農法」や「無の哲学」のそれほど熱狂的な支持者でも何でもなかったからで、長い間忘れ去ってしまっていたのである。ただ、昨年の秋の暮れくらいから、たまたま縁があって山で家庭菜園のような真似事を始めることになった。それはたとえままごと遊びにすぎないとしても、農に、土や野菜や果物と直接にかかわり始めているといえる。それこそ各個人の価値観の問題で、何に価値や歓びを見出すかは人それぞれであるとしても、自分で作った野菜や果物を食べるのは、それなりに楽しい点もある。また、「自然」により深くかかわる歓びもある。自然や農業についてよく知るためにも、今にして思えば、一度くらい機会を作って、福岡正信氏を訪問しておくべきだったのかも知れない。

クローバー草生の無耕起直播の農法、プロの農家からは実現不可能に見える「不耕起、無化学肥料、無消毒」の自然農法は見向きもされず、農業には無縁の都市生活者の素人にしか関心を引き起こさない。しかしだからと言って、そこにまったく可能性がないわけではない。福岡氏の「自然農法」はむしろ「プロ」の農業者を無くす試みとも言えるからである。現代日本のプロの農業生活者の基盤である農村の多くが崩壊の危機にあると言われる。おそらくそれは、現代人や現代社会が福岡氏の「無の哲学」へと価値観を根本的に変換できないためである。しかし、もしこの前提が崩れれば、福岡氏の自然農法の実行は可能となるかもしれない。問題は、この「不可能」な前提が崩れる要件はあるか、あるとすればそれは何か、である。

去る十六日、私にとっては長い間動静が途絶えていた福岡正信氏の訃報が伝えられていた。享年九十五歳。また日本人らしい日本人が失われてゆく。福岡氏の自然農法は、「無の哲学」そのものから生まれたものである。それゆえにこそ、氏の農法は、おそらくこの日本でよりも、欧米においてこそ真に受け継がれ開花して行く宿命にあるのかもしれない。


6/6 自然農法60年の歩み「粘土団子世界の旅」 福岡正信

自然農法を提唱 福岡正信さんが死去

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# by aowls | 2008-09-29 16:45 | サ行

海軍

原子力空母ジョージ・ワシントン号の横須賀米軍基地寄港
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航空母艦ジョージ・ワシントン2008年9月25日横須賀入港

航空母艦ジョージ・ワシントン


アメリカ海軍の原子力航空母艦ジョージ・ワシントン号が25日の朝、神奈川県の米軍横須賀基地に入港したことが報じられていた。今年の5月に乗組員のたばこの火の不始末?による火災事故のために、一月以上も寄港が遅れたとのことである。

例によって、労働組合や市民団体が、この空母の入港に反対して気勢を挙げていた。放射能の汚染漏れ事故などを恐れてのことであるが、そもそも入港反対派は、日米安保条約それ自体に反対している。

北東アジアの情勢は動揺を深めつつある。北京オリンピック後、上海万博後の中国国内の動向、金正日の健康悪化による北朝鮮の不安定化、それぞれの国で国内矛盾が深刻化しつつある。中国はその海軍力をとみに強めて、東シナ海から太平洋への進出と覇権を目指している。最近も日本の領海内に海上自衛隊の座視するのを尻目に中国海軍の潜水艦は遊弋出没している。

また、アメリカのテロ指定国家解除の延期に業を煮やした北朝鮮は、IEAによる核施設の封印と監視装置を取り外した。中国に近い西部海岸沿いに新たなミサイル発射台が作られているともいう。その矛先は日本である。

今回の空母ジョージ・ワシントンの寄港は、動揺を深める北東アジアの情勢下に、中国や北朝鮮さらにロシアなどに対して、アメリカが日米安保条約にもとづいて、その軍事力の存在を示して抑止効果を狙ったものである。

軍事力の均衡が唯一の平和の条件であるという現実の国際関係の中で、自国の軍事力の放棄をうたった日本国憲法による不備と空白を埋めるためには、安全保障条約にもとづくアメリカの軍事力に依拠するしかないのである。

歴史にみるように、諸国家は相互に排他的であり、つねに対立の生じる必然性におかれている。そうした現実にあって、日本国民が自国の独立の保証を自国の軍備に求めるという独立国としての当然の条件を放棄するとき、日本国はその空白を埋める代償として、アメリカに軍事力の駐留と存在を求めざるをえない。そして、この現実こそが日本国の対米従属と半植民地化の傾向の根源になっている。

日本国憲法の軍事力の放棄の規定そのものが、日本の対アメリカの従属とその半植民地化を必然的な帰結としてもたらしている。それにも関わらず、この現実を現行日本国憲法の擁護論者たちは見ようとせず、自らの自己矛盾を自覚することもない。

安全を他国に依存するという豚の安楽とモラルの退廃から抜け出して、独立国としての自由と主権を日本国民が独自の軍事力に求めて行くことを悲願とするなら、日本国民は国際関係の中で諸国家の間に存在する緊張と不安の中に身を置くことを覚悟せざるをえない。それは自由と独立の代償でもある。

太平洋戦争の敗北という特殊な状況下で制定された現行日本国憲法も、以来半世紀を過ぎ、その間にGNPで世界第二位を占めるなど、国際環境も国内の政治と経済の体制も大きく変化している。そして、いずれ中国海軍とアメリカ海軍が太平洋を支配し利権を分けあおうとする中で、日本が自由と主権を守ろうとするとき、現在の日本のような「経済大国」がいつまでも軍事的、政治的弱小国であり続けることはできない。それは侵略戦争を絶対的に否定する立場とも矛盾するものではない。また日本が完全な民主主義国として世界から認知されるとき、自由と主権の独立を追求するための日本の軍事力を否定する民主主義国はないはずである。
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# by aowls | 2008-09-27 00:34 | カ行

立憲君主制

至高の国家形態
2006年02月10日
http://anowl.exblog.jp/2667865/

皇室典範の改正問題を小泉首相が提起することによって図らずも、国民の世論が分裂しかねない危機を招いている。愚かなことである。最低の政治的な選択というほかはない。皇室典範(伝統として確立された「自然法」としての)については、本来的に改変ということはありえない。なぜなら、皇室典範の概念からいってそれは過去を踏襲し、将来に世襲してゆくこと自体に意義があるからである。この問題について前に論じたことがある。

○男系天皇制か女系天皇制か──皇室典範に関する有識者会議をめぐる議論

○保守と改革──守るべきもの改めるべきもの

これらの問題について、もう少し考察してみたい。

至高の国家形態とは、すなわち国家の概念は、その現実的な形態としては立憲君主制を取る。それは自由と秩序が相互に緊張しながら調和している国家である。

自由は人間にとって至高のものであって、人間にとって光や空気がなければ肉体が死ぬように、精神的な存在である人間にとっては、自由がなければ精神は死ぬのである。だから自由のない国家は悲惨である。

しかし、神ならぬ人間はこの自由を正しく行使できず逸脱する。自由は専横でもなければ恣意でもない。自由とは守るべき秩序を正しく守ることがほんとうの自由である。

しかし、フランス革命や中国、カンボジアの文化大革命に見られたように、秩序なき「自由」において人間の悪は往々にして多数者の暴虐に帰結する。それは、過去の革命国家に例を見るように、いわゆる「人民民主主義」国家が、国家としての概念に一致せず、いわば奇形国家だからである。そうした国家ほど国民に不幸をもたらすものはない。

もっとも完成され調和の取れた、理念として正しく安定した国家は、君主の人格の中に国家全体の秩序を見る国家である。この秩序の中に国民の自由は最大限に確保されるのである。

秩序は君主制において実現される。君主制の中でも、もっとも純粋な君主制は一系君主制である。人間は男性と女性しかないから、現実には男系君主制か女系君主制かのいずれかでしかない。日本は伝統的に男子一系君主制に従ってきた。そして、君主制とは世襲そのものに意義があるから、日本にとっては従来どおり男系君主制を過去と同様に未来においても持続することがもっとも正しい選択である。もし日本が伝統的に女子一系君主制をとってきたのであれば、将来においてもに女系君主制を維持してゆくのが最善の選択である。男女同権とか男尊女卑といった、悟性的な浅薄な論議ではない。

欧米にも君主制があるが、それは、日本の男子一系君主制ほどその世襲は純粋なものではない。にもかかわらず、わが国が世界にもまれに貴重な男子一系世襲制を取り替えて、そこに女系君主制を導入するのは、世襲制の純粋を損なうものであって、君主制の本来の概念からいって、改悪というほかはない。それは、タリバンのバーミヤンの佛像破壊などとは比較にならない、過去の貴重な伝統遺産の破壊以外の何ものでもない。小泉首相をはじめ「有識者」と称される人々は、悟性的な理解力しか持たない人には、それが理解できないのである。君主制の価値を正しく理解するのは最も困難なことである。(欧米人の多くも理解できない)

明治の大日本帝国憲法で、伊藤博文は、「立憲君主制」の理念にしたがって、日本国を、正しい国家概念へと、「至高の国家」へと形成するのに少なからず貢献した。しかし、「立憲制」についての、すなわち「民主主義」について、伊藤博文をはじめ国民の理解に未熟と欠陥があったために、昭和の初期に、正しい「立憲制」を逸脱して「全体主義」にいたる道を開けてしまった。

自由とは共同体の意思が国民の個々の意思と一致することにある。民主主義が自由と不可分の関係にあるのはそのためである。戦前の大日本帝国憲法の「立憲君主制」では、その「立憲」における民主主義の未熟のために、「全体主義」を許し、太平洋戦争の開戦を抑止し切れなかった。現在の日本国憲法が今後改正されるに当たっても、この過去の教訓に深く学んで、より完成された民主主義と君主制にもとづく「立憲君主制」の理念を新しい憲法で追求してゆく必要がある。

曲がりなりにも保持しているわが国の「立憲君主国家」体制は、至高の国家体制である。日本国民は、自らの国家体制に誇りを持つべきであるし、さらに、国家と国民は「立憲君主制」国家の理念を追求してゆくべきだと思う。

アメリカなどに見られるような大統領制国家は、剥き出しの市民社会国家であって、ただ多数であることだけが「真理」とされる、恣意と悟性の支配する、往々にして品格と理性に欠ける国家であることを日本国民は忘れるべきではないだろう。
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# by aowls | 2008-09-12 17:04 | ラ行

イギリス

「日本国の概念」とイギリス
2006年11月20日
http://anowl.exblog.jp/4351568

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日本国は日本国であって決して英国ではない。しかし、英国と日本とは、ユーラシア大陸を挟んで極東と極西と地理的には正反対に位置するけれども、同じ立憲君主国家であり、大陸の周辺国家であり、また島国であるなどの類似点も多い。

なぜこのようなことを言うかというと、今日の日本国の現状は周知のように教育亡国、政治亡国の瀬戸際にあるからである。それらは日本国民の教育や国家意識など多くの点で、太平洋戦争における日本の敗北の結果としてもたらされた国家概念のゆがみと、その戦後政治体制の行き詰まりに起因していると考えられるからである。そうした状況から脱却してゆくうえで、明治維新に伊藤博文などが欧州に国家観を学んで新しい日本の国家体制を確立したように、まだなお多くの点で英国などの国家体制を参考にできるし、すべきであるからである。

英国は、日本のように第二次世界大戦で敗者として、政治的にも文化的にも外圧的に国家体制の強制的な転換を余儀なくされることもなく、今日に至っている。また、明治維新のように、黒船などの諸外国の暴力的な圧力によって強制的に開国されることも文化的な断絶を国家として経験することもなかった。それゆえに英国などは、私たちがオーソドックスな国家の概念を考える上で参考になる。

自由で独立したあるべき正しい国家概念を、そうしてまず日本国民が日本国の再生のためにしっかりと自覚し、目的としてゆく必要がある。その際に英国やスイスなどの国家体制は参考にしうる。

まず第一に、自由で独立した国家として英国やスイスは、その国内に日本のように外国駐留軍を置いていない。日本国民のモラルの退廃の一つの原因としてアメリカの駐留軍の存在が大きいのである。

もちろん、政治的には今すぐには在日アメリカ駐留軍の撤退を実現させることはできないが、それは国民の「悲願」であるべきである。国内に外国の軍隊が駐留していることを国民は恥じるだけの誇りを持たなければならない。

いつの日か、アメリカ軍にお礼を言って国内から帰ってもらい、日本人自身の手で、国家と国民の安全を確保できるようにしてゆくことである。そして、アメリカとは現在のような半植民地のような従属的パートナーの関係ではなく(それは現行「日本国憲法」による国家体制の必然的な帰結によるものであり、また、アメリカの国際戦略の一環でもある。)、イギリスのように、より対等な同盟国家関係にしてゆく必要がある。

そのためにも防衛庁は国防省に、自衛隊は国防軍に改組し、さらに必要とあれば、自発的な兵役の義務も国民に復活させる必要があるだろう。また、国家情報機関も強固な組織に編成する必要があるかも知れない。

そして、そのために何よりも大切な前提としては、現在の日本の自由民主党や民主党などの政党で行なわれているような偽物の自由と民主主義ではなく、イギリスやスイスで行なわれているような自由と民主主義についての真正の自己教育を国民一人一人に実行してゆく必要がある。


2006年11月20日
②20080910
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# by aowls | 2008-09-10 12:55 | ア行

スイス

理想の国家、現実の国家
2008年09月02日 / 国家論
http://anowl.exblog.jp/8548232/


かって私のホームページの中で、私自身の国家像を明らかにするために、スイスの行政や経済の一端を調べたことがある。その後の研究はいっこうに進んではいないけれども、スイスや北欧諸国の政治経済、その統治行政機構、国家形態などは、今日混迷するわが国の進路を明らかにして行く上で必要であるし、また有益であると思う。引き続き、機会があれば最大限に実行して行きたい。また、もし同志の方がおられれば意見も交換できればと思っている。(統計データは2005年当時のまま。日本の一人あたり国民総生産の順位は現在は低下していると思う。 第18位ぐらいをうろついているのではないか)理想の国家、現実の国家(2005/11/16)
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最も理想的な国家とは、宗教的に表現すれば「神の国」のことである。もちろん、完全に理想的な国家はこの地上には存在しない。しかし、より理想に近い国家ならある。その多くは欧州の国である。とりわけスイス、フィンランド、アイスランド、など北欧、中欧のどちらかと言えば小国である。さしあたっては、これらの国家を理想としている。特にスイスである。スイスは、面積としては日本の377835k㎡ に対して41290k㎡であり、日本の人口が1億2767万人であるのに対して、スイスの人口はおよそ745万人。しかし、一人あたりの国民生産は世界第5位だという。日本は11位である。世界的に有名な大企業も多い。フィンランドは携帯電話会社で世界的なシェアーを誇るノキアやパソコンの基本ソフトのLINUXで知られている。国際経済競争力でも世界一位に評価されている。

これらの国は、いずれも国民一人当たりの国民総生産は先進国でも最高水準にあり、教育程度も高い。OECDの学習到達度評価でも高い水準にある。ふだんは新聞やテレビのトップニュースに報じられるようなことはほとんどないが、国民は平和で豊かな生活を享受している。世界にトップニュースで知られることは必ずしも幸福なことではない。むしろ、その存在などほとんど知られることがなくてもよいのだ。

これらの国の特徴についても、多くのWEBサイトで調べることができる。

外務省、スイス連邦の項  
          http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/switzerland/data.html

スイスのページ  http://www1.linkclub.or.jp/~swiss/

スイス連邦(スイスれんぽう);ウィキペディア(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9

「主な産業は、観光業、精密機械工業(時計、光学器械)、化学薬品工業、金融業(銀行、保険)。


国民1人あたりのGDP(国内総生産)は、$32,000で、世界第5位(2002年)。ちなみに、日本は、$ 28,700で、第11位。

通貨のスイスフランは、金よりも堅いと言われるほどの安定通貨。国内の物価および賃金水準は高く、国民の貯蓄高も、日本並みに高い。また、輸入関税率は低く、高級外車などが比較的安く購入できる。スイスの欧州連合 (EU) 加盟の賛否を問う国民投票において、国民の過半数が反対票を投じる重大な理由はここにある。すなわち、スイス国民にとってEU加盟は何らメリットが見出せないのである。」

スイスの国内産業には、観光や精密機械、化学薬品、金融保険などが多く、世界的な銀行や保険会社が多い。また、国内には、多くの国際機関が本拠地を置いている。

特に賞賛したいのは、多くの山岳地帯に非常に高度な技術に裏付けられた精密機械工業が存在することである。

わが国も、こうした美しい風土を背景とする観光産業と高度な産業技術の両立する国家社会を理想としたいものである。田中角栄の列島改造論以来、いたるところ荒廃してしまった国土を回復する必要がある。人心の荒廃と自然の荒廃には深い因果関係がある。

日本も山間部に森林を多く持っている。しかし、残念ながらそうした地帯の多くは過疎化が進み、荒廃こそ進んでも、そこに精密機械工業が盛んになるなど考えられていない。また誰も、どこの自治体もそうした一帯に超高度の情報技術産業を確立させようと発想するものもいない。せいぜい、信州の諏訪湖畔に精工舎やエプソンなどの工業がある程度である。

発想を転換して、そうした過疎地帯にも、IC産業やその他の最新ハイテク産業を定着させることができないものだろうか。
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そして、スイスにはもっともオーソドクスな民主主義国家体制を学ぶことができると思う。わが国の民主主義は、太平洋戦争の敗北を契機として、アメリカ占領軍によってもたらされたために、多くの点でわが国の「民主主義」は奇形化している。そのために『戦後民主主義』などと揶揄され誤解されることになっている。特に、戦争放棄条項と一緒に民主主義が憲法に導入されたために、民主主義が、極めて観念的な狂信的平和主義と混同されるようになった。特にこの傾向は女性に強いようである。

日本の民主主義を本来の姿に戻すために、自衛隊を国防軍に改組し、また、国民の兵役の義務化を主張したい。スイスでは、これらは自明の国民的な義務である。
私にとって多くの理想的で模範的な国家は、残念ながら、そのほとんどが北欧や中欧などのヨーロッパ諸国でありキリスト教国である。その中には残念ながら、アジアの国家、仏教国やイスラム諸国は一国もない。イエスが「ただ神の国を求めよ」と言ったことと無関係ではないと思う。

こうした事実を見るとき、国家の繁栄と民度や文化の水準の高さは、結局、宗教であるキリスト教と関係があると推測せざるを得ない。しかし、日本人は、この創造と主体性の根源を手に入れようとはしない。だから、いつまでも神の国は近づかず、いつも模倣と追随に終わるのだ。

(2005.08.05 )

基本的な方向としては、現在の日本の中央集権的な官僚主権国家を、道州制を基盤とした地方分権型行政に変えてゆくこと、また、地方政府の行財政改革と人材の育成を進めながら、地方財政の中央依存から脱却してゆくこと、地方政府の質を高め、より大きな自治・裁量権を与えること、だろうと思う。問題は、この実現を妨げているのは何か、である。
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# by aowls | 2008-09-09 14:45 | サ行

公共

「公共」と「家政」
http://anowl.exblog.jp/8557079/

例によって、エキサイトのブログのコメントでは「内容が多すぎますので、695文字以上減らした後、もう一度行ってください。」という表示が出てしまいました。そのために、まとめて投稿するために、新しい記事にしました。

hishikaiさんの「福田康夫氏」論をあなたのブログで読ませていただきました。ギリシャの都市国家に二つの空間を見られているのは面白い視点だと思いました。近現代においてはさしずめ「国家・市民社会・家族(個人)」すなわち、「普遍・特殊・個別」の三つの空間を見るのでしょう。

確かに、福田氏には、国家体制や外交・防衛などの理念に関する問題、普遍的な問題について語る問題意識も能力もなかったのだろうと思います。それは福田氏が前総理の安倍晋三氏と同じように、氏の政治家になった本当の動機が、「たまたま政治家の二世に生まれたこと」にあったからではないでしょうか。(二世議員がこれほど支配的な立法府というのは、その国家がまさしく、いまだ封建的な後進国家であることの証明でしかないのですが、日本国民はこの事実をまだ自覚していません。病膏肓に入るですw。いぇ私は自分の国のことは客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです。)

福田康夫氏はあなたのおっしゃるように、「女房」たちの「家政」に関わる、せいぜい「市民社会」の問題しか本質的に語ることができなかったようです。そして、それは単に福田康夫氏だけの問題ではなくて、多くの日本の「政治屋」の問題でもあるのだろうと思います。

実際にも衆議院に巣喰う400余名の「選良」の多くは、道路の利権や農業の助成金そして、中小企業の政策金融などの問題には極めて鼻が利きます。もちろん、それらが重要な問題ではないというのではありませんが、誤解を恐れずに言えば場合によればそれは「税金泥棒」という意味も持ちます。しかし、そうした分野がもともと得意な人たちには「地方政治」の「家政」に従事してもらい、国家の中枢である衆議院では、せいぜい現行の定数の半数以下の200人程度の、本当に「普遍的な」「公共」の問題を論じる意思と能力を持った国民の「選良」たちによって運営してもらえばよいのではないでしょうか。(参議院と衆議院の二院制やその定数問題も真剣に議論する段階に来ていると思います。)


国家の中枢であるべき衆議院の政治的能力の低下の、その原因をさらに突き詰めてゆけば、それは日本の文化の問題や、大学、大学院での政治や憲法教育の問題にまで行き着くと思います。このような「政治屋」しか日本の大学では生み育てられないのが現状です。以前にもあなたの「福田康夫氏」論のように、福田氏について論じたことがあります。日本の政治や政治家の現状を見る一つの視点としていただけるのではないでしょうか。

福田康夫氏は、辞任表明後は、「公共の世界」の問題を超えて、永遠の問題、形而上の問題を語って、政治家ならぬ「宗教家」、「哲学者」として退任されようとしておられるようです。

福田首相:メルマガ最終号は抽象的に「太陽と海と伊勢神宮」
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080904mog00m010001000c.html

福田康夫氏の総裁選不出馬──日本政治の体質
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20060725

福田内閣メールマガジン(第46号 2008/09/04)
http://www.mmz.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2008/0904ya/0904souri.html


②20080908
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# by aowls | 2008-09-09 14:28 | カ行

永遠

永遠の今
2008年09月08日 / 宗教・文化
http://anowl.exblog.jp/8576586/

さきに福田首相が辞任を表明されたとき、ご自身のメルマガでの中で、「太陽と海と伊勢神宮」に触れ、「永遠の今」について語られようとした。魑魅魍魎の徘徊する政界の、虚妄と有限の地獄図に嫌気がさした福田氏の心のなかに、このとき潜んでいた菩提心がふと思わず顔を出したのかもしれない。

「太陽も海も伊勢神宮」も、もちろんすべて「真に永遠なるもの」ではない。それらも所詮はその影にすぎない。真に永遠なるものはただ神のみだからである。というよりも、私たちは真に永遠であるものを神と呼ぶのである。だから、真に永遠であるものが存在しなければ、神も存在しない。

政治という有限と虚妄の世界に疲れ果てた福田氏(「公共と家政」)が思わず口にされた「永遠の今」とは、無限が有限に自己を啓示する瞬間であり、有限が無限を垣間見る瞬間の事である。無限と有限とがきびすを接する瞬間が「永遠の今」である。このとき、人間は神を見、神はご自身を人間に啓示する。芸術も哲学も、この永遠なるもの、神を見ようとする人間の切ない憧れを示す試みである。

そして、この永遠なるものに、神にささえられたときにはじめて、「有限なる今」も政治もまた空しいものでなくなる。

福田氏が総理大臣の職を辞するに当たって、「政策を立案する際、この「永遠の今」を想うことがありました」と言うとき、思わずこの「想う」という言葉をつかったのも、決して偶然ではない。福田氏は政治という虚しくはかない今に耐えきれず、思わずそれを「永遠」という堅い杭につなぎ留めようとしたのである。たとえただ、それが「永遠なるもの」の影にすぎなかったとしても。
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# by aowls | 2008-09-09 14:13 | ア行