民間防衛

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民間防衛(みんかんぼうえい、civil defense)とは、武力紛争等の緊急事態において市民によって国民の生命及びインフラストラクチャーや公共施設、産業などの財産を守り、速やかな救助、復旧によって被害を最小化することを主目的とする諸活動をいう。民防と略される。文民保護の機能もある(日本では国民保護に相当)。
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『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E9%96%93%E9%98%B2%E8%A1%9B
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# by aowls | 2008-09-09 13:54

哲学者の任務


また著作家、とくに哲学上の著作家の任務は、真理を発見し、真理を語り、真理および正しい概念を広めてゆくことであると言うことができる。ところが、この仕事がどのような仕方で行なわれているのかというと・・『法哲学序言』
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# by aowls | 2008-09-08 13:08 | 序論

世界

全世界は一つの舞台である。
そうして、全ての男と女は単なる役者にすぎない。
彼らは、上手から入り、下手から出てゆく。
そうして、ある男は、生涯に多くの役を演じる。
彼の演目は七つある。先ずは、幼児の役である。・・・・
・・・・・・・・・・・・・・

この奇妙で騒々しい芝居もラストシーンは、結局、
二番煎じの子役を演じて、そうしてちょっとしたせりふも忘れて終わる。
歯もなければ、視力もない。味覚もなければ、全てがない。

シェイクスピア「お気に召すまま」

Jacques: All the world's a stage,
And all the men and women merely players;
They have their exits and their entrances,
And one man in his time plays many parts,
His acts being seven ages. At first, the infant,
Mewling and puking* in the nurse's arms.
Then the whining schoolboy, with his satchel
And shining morning face, creeping like snail
Unwillingly to school. And then the lover,
Sighing like furnace, with a woeful ballad
Made to his mistress' eyebrow. Then a soldier,
Full of strange oaths and bearded like the pard*,
Jealous in honour, sudden and quick in quarrel,
Seeking the bubble reputation
Even in the canon's mouth. And then the justice,
In fair round belly with good capon* lined,
With eyes severe and beard of formal cut,
Full of wise saws* and modern instances;
And so he plays his part. The sixth age shifts
Into the lean and slippered pantaloon*
With spectacles on nose and pouch on side;
His youthful hose, well saved, a world too wide
For his shrunk shank, and his big manly voice,
Turning again toward childish treble, pipes
And whistles in his* sound. Last scene of all,
That ends this strange eventful history,
Is second childishness and mere oblivion,
Sans* teeth, sans eyes, sans taste, sans everything.

(As You Like It, 2. 7. 139-167) Shakespeare

"All the world's a stage"
http://internetshakespeare.uvic.ca/Library/SLT/life/lifesubj+1.html
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# by aowls | 2008-09-07 20:30 | サ行

ビッグバン3

『ビッグバンと世界の二律背反――物理学者の世界観と哲学者の世界観』
2007年01月24日
http://anowl.exblog.jp/4617383

ビッグバンの理論というのは、宇宙が爆発によって起きたにせよ、あるいは、無から物質が生じたにせよ、要するにこの説によれば、宇宙には始元があることを前提とする説である。果たして本当にそうなのだろうか。現代の物理学者たちのなかには、このビッグバンの世界観に異を唱えるものは一人もいないのだろうか。

もしビッグバンが事実であるなら、宇宙は時間と空間上の始まりを持つことになる。しかし、この見解は哲学史上は比較的に新しいのではないだろうか。古代ギリシャなどでは、むしろ、世界には始めも終わりもないという考え方が支配的ではなかったろうか。

世界は時間の始まりを持つと仮定すれば、時間の始まり以前の無時間の世界の状態をどのように考えるべきか。そこは時間が存在しないのであるから、世界も存在しないことになる。しかし、事物は時間のなかで継起するものである。時間のない世界では事物の継起は不可能である。だから、世界は時間の始まりをもたない。

しかし、もし世界が時間の始まりを持たないと仮定すればどうか。そのとき世界は、それまでに永遠の時間が経過していることになる。世界の事物は無限の継起の中にあったことになる。しかし、事物の存在は限界なくしてはありえない。だから、世界は何らかの時間の始まりを、時間的な始まりをもつ、すなわち有限である。このような推理は、ビッグバンの学説と矛盾しないし、むしろ裏付けるものである。

ビッグバンを主張する物理学者は、この一面の真理だけで世界を見る。

また、もし世界が空間の始まりを持たないとすれば、世界は同時に存在する事物の無限の全体である。しかし、この全体は部分の総合によって完成されたものであり、その完成のためには、無限の時間が必要である。しかし、無限の時間など不可能である。だから、空間は有限である。

しかし、世界が空間の限界を持つとすれば、世界は、限界のない空間のなかに存在することになる。限界のない空間とは関係を持つことができない。だから、世界は空間の限界をもち得ない。空間は無限である。

このように、哲学においては世界は、物理学と異なって、二律背反の世界である。この命題の証明は難しいが、それは、ちょうど光が粒子と波動の相反する二つの性質を本質としているようなものである。だから、哲学者はビッグバンを主張する物理学者のように、単に時間的に、あるいは空間的に一面的に世界を見ないで、二律背反する命題を統一において、その本質と概念から世界を見る。

哲学者は必ずしも天体望遠鏡をのぞいたり、最先端の現代数学を駆使するのではないけれども、私は哲学者の世界観を支持したいと思う。だから、物理学者たちの、ビッグバンの理論なども、その意義と限界において見るのであって、眉に唾を塗りながら耳を傾けるのである。果たしてどちらが世界の真実を捉えることができているのだろうか。
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# by aowls | 2008-09-06 15:09 | ハ行

ビッグバン2

『経験科学と哲学』
2006年11月07日
http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20061107

物理学や天文学、さらに数学などの科学と哲学の本質的な相違点はどこにあるのだろうか。かっては物理学や数学も哲学の一部門とされたはずだが、そうした学問領域は、特殊科学として独立し独自の学問領域を形成し、残された哲学は、普遍科学として、世界観や論理の問題を対象とする科学となった。

哲学が問題にするのは、世界観の問題である。それは物理学、数学、天文学など経験科学とどのように違うのか。

前回の「薔薇の名前と普遍論争」で、コメントをいただいたらくだ氏が取り上げていたフレーゲ氏などは数学者であるかもしれないが、哲学の立場、世界観の立場としては唯名論者であり主観的な観念論者であると思われる。

「ビッグバンの理論」などの研究を媒介にして、宇宙の成り立ちや構造を研究している物理学者や天文学者は、数式を使ってその世界像を明らかにしようとしている。しかし、どんなに複雑な数式を利用しようが、それらによって根本的な世界観が発展させられているわけではない。それらは本質的には経験主義的で非哲学的な単なる自然科学的理論にすぎない。

物理学者などは、「Αβγ理論」とか「ビッグバンの理論」とか「ヒモ理論」とか「くりこみ理論」とかを編み出して宇宙の起源と進化を説明した気になっている。彼らはそれで世界をわかったつもりで説明してみせるが、要するに、それらは宇宙の本質を説明する世界観ではなく、いずれは新たな学説に取って代わられる「仮説」に過ぎない。天文学者や物理学者たちは自分たちの経験主義的で非哲学的で有限な自然科学理論を絶対視しているにすぎない。「ビッグバンの理論」などはだから、その本質は聖書の「天地創造神話」の現代版に過ぎないと思っている。
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# by aowls | 2008-09-06 15:00 | ハ行

ビッグバン


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ビッグバンという語は狭い意味と広い意味の両方で用いられる。狭い意味では、現在観測されている(ハッブルの法則に従う)宇宙膨張が始まった時点のことを指す。この時刻は今から137億年(1.37 × 1010年)前と計算されている。より一般的な意味では、宇宙の起源や宇宙膨張を説明し、またα-β-γ理論から予測される宇宙初期の元素合成によって現在の宇宙の物質組成が生まれたとする、現在主流の宇宙論的パラダイムを指す場合もある。

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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%90%E3%83%B3
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# by aowls | 2008-09-06 14:26 | ハ行

ビッグバン1

②ビッグバン1

『「薔薇の名前」と普遍論争』
2006年11月04日 / 哲学一般
http://anowl.exblog.jp/4133948

もう何年が過ぎただろうか。『薔薇の名前』という小説が、世界的なベストセラーになり、また、ショーン・コネリーの主演で映画化もされたことが記憶に残っている。

この小説の主人公である修道僧アドソの師はイギリス人のフランチェスコ会修道士でバスカヴィルのウィリアムといい、同じイギリスのフランチェスコ会修道士で唯名論者として知られていたオッカムのウィリアムと友人であったという舞台設定になっている。そして、異端審問官であり学僧でもある彼はまた、イギリスの経験論の祖ロジャー・ベーコンにみずから弟子として私淑していることになっている。

この小説は小説家ならぬイタリアの記号論言語学者にして文献学者でもあるウンベルト・エコの手になる作品である。それは一見書籍誌らしい小説で重層的な構造になっているらしいことである。ヨーロッパの修道院や教会の建築のように、石造りの城郭のように堅牢な歴史の風雪にたえうる小説のような印象を受ける。

それにしても興味をそそられるのは、もちろんこの作品が文献学者が書いた小説であるといったことよりも、この小説の中で、主人公アドソの師バスカヴィルのウィリアムの友人として、実在の唯名論者オッカムのウィリアムが取り上げられていることである。

唯名論というのは実在論の対概念であって、ヨーロッパの哲学・神学史においては、この二つの哲学的な立場から行われた論争は―――いわゆる「普遍論争」として―――歴史上もよく知られている。もちろん、こうした論争は、ソクラテス・プラトン以来の西洋のイデア論の伝統の残された世界でしか起こりえない。

私たちが使っている言葉には概念が分かちがたく結びついている。中には、ゲーテの言うように、概念の無いところに言語が来る人もいるとしても。

この概念は、「普遍」と「特殊」と「個別」のモメントを持つが、はたして、この「普遍」は客観的に実在するのかということが大問題になったのである。

たとえばバラという花が「ある」のは、もちろん誰も否定できない。私たちが菊やダリアなどの他の植物から識別しながら、庭先や植物園で咲き誇っている黄色や赤や白いバラを見ては、誰もその存在を否定することはできない。

バラの美しい色彩とその花びらの深い渦を眼で見て、そして、かぐわしい香りを鼻に嗅いで、枝に触れて棘に顔をしかめるなど私たちの肉体の感覚にバラの実在を実感しておきながら、バラの花の存在を否定することなどとうていできないのは言うまでもない。それは私たちの触れるバラの花が、個別的で具体的な一本一本の花であるからである。

それでは「バラという花そのもの」は存在するのか。「バラという花そのもの」すなわち「普遍としてのバラ」は存在するのか。それが哲学者たちの間で大議論になったのである。

この問題は、「バラ」や「船」「水」のような普通名詞であれば、まだわかりやすいかもしれない。それがさらに「生命」や「静寂」、「正義」や「真理」などの、私たちの眼にも見えず,手にも触れることのできない抽象名詞になればどうか。「鈴木さん」や「JACK」などの一人一人の人間や「ポチ」や「ミケ」などの犬猫の個別の存在は否定できないが、それでは「生命そのもの」「生命」という普遍的な概念は客観的に存在するのか。あるいはさらに、「真理」や「善」は果たして客観的に実在するものなのか。

この問題に対して、小説『薔薇の名前』の主人公アドソの師でフランチェスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムは、唯名論者オッカムのウィリアムらと同じく、「バラそのもの」は言葉として存在するのみで、つまり単なる名詞として頭の中に観念として存在するのみであるとして、その客観的な存在を認めなかったのである。

話をわかりやすくするために、「バラそのもの」や「善」などの「抽象名詞の普遍性」を「概念」と呼び、そして、「バラ」の概念や、「善」といった概念は、客観的に実在するのか、という問いとして整理しよう。

この問題に対して、マルクスやオッカムのウィリアムなどの唯物論者、経験論者、唯名論者たちは、概念の客観的な実在を認めない。それらは「単に名詞(名前)」にすぎず、観念として頭の中に存在するだけであるとして、彼らはその客観的な実在性を否定する。唯物論者マルクスたちの概念観では、たとえば「バラ」という「概念」ついては、個々の具体的な一本一本のバラについての感覚的な経験から、その植物としての共通点を抽象して、あるいは相違点を捨象して、人間は「バラ」という「言葉」を作ると同時に「概念」を作るというのである。

だから、経験論から出発する唯物論者や唯名論者は、マルクスやオッカムのウィリアムたちのように、概念の客観的な実在を認めないのである。

しかし、ヨーロッパ哲学の伝統というか主流からいえば、イデア論者のプラトンから絶対的観念論者ヘーゲルにいたるまで、「概念」すなわち「普遍」は客観的に実在するという立場に立ってきたのである。(もちろん、私もこの立場です。)

これは、「普遍」なり、「概念」なりをどのように解するかにかかっていると思う。マルクスやオッカムのウィリアムのような概念理解では、唯名論の立場に立つしかないだろう。唯名論者に対して、プラトンやヘーゲルら実在論者の「普遍」観「概念」観とはおよそ次のようなものであると思う。

それはたとえば、バラの種子の中には、もちろん、バラの花や茎や棘は存在してないが、種子の中には「バラという植物そのもの」は「観念的」に実在している。そして、種子が熱や光や水、土壌などを得て、成長すると、その中に観念的に、すなわち普遍として存在していた「バラそのもの」、バラの「概念」は具体的な実在性を獲得して、概念を実現してゆくのである。そういう意味で、「バラそのもの」、バラの「普遍」、バラの「概念」は種子の中に客観的に実在している。

これは、動物の場合も同じで、「人間そのもの」、人間という「普遍」、人間という「概念」は、卵子や精子の中に、観念的に客観的に実在していると見る。

ビッグバンの理論でいえば、全宇宙はあらかじめ、たとえば銀河系や太陽や地球や土星といった具体的な天体として存在しているのではなく、それは宇宙そのものの概念として、無のなかに(あるいは原子のような極微小な存在の中に)観念的に、「概念として」客観的に実在していると考える。それが、ビッグバンによって、何十億年という時間と空間的な系列の中で、宇宙の概念がその具体的な姿を展開してゆくと見るのである。プラトンやヘーゲルの「普遍」観、「概念」観はそのようなものであったと思われる。

唯名論者や唯物論者たちは、彼ら独自の普遍観、概念観でプラトンやヘーゲルのそれを理解しようとするから、誤解するのではないだろうか。

小説『薔薇の名前』の原題は『Il nome della rosa 』というそうだ。この日本語の標題には現れてはいないが、「名前」にも「薔薇」にも定冠詞が付せられている。定冠詞は普遍性を表現するものである。だから、この小説は「薔薇そのもの」「名前そのもの」という普遍が、すなわち言葉(ロゴス)そのものが一冊の小説の中に閉じ込められ、それが時間の広がりの中で、その美しい花を無限に咲かせてゆく物語と見ることもできる。主人公の修道僧メルクのアドソが生涯にただ一度出会った少女のもつ名前が、唯一つにして「普遍的」なRosaであるらしいことが暗示されている。

それにしても、小説『薔薇の名前』はまだ本格的には読んでいない。何とか今年中には読み終えることができるだろうと思う。書評もできるだけ書いてみたい。映画もDVD化されているので鑑賞できると思う。年末年始の楽しみになりそうだ。




『ビッグバンとヘーゲルの世界像』
2006年10月07日 / 哲学一般
http://anowl.exblog.jp/3960925

現代の物理学の成果から、ビッグバンによって宇宙の膨張が始まったという現代の宇宙像を多くの人が肯定するようになっているという。とすれば、聖書などに記述されている、天地創造の神話もあながち単なる神話に済ませられない可能性もある。

人類の宇宙像は、科学の進歩によって変化し、進展するものである。私たちは、科学という「眼鏡」を通じて世界をのぞき見ているのであって、科学という眼鏡を新しく取り替えるごとに、世界が異なって見えるというわけである。しかし、とくに天文学者などは、望遠鏡をもって現象としての世界を眺めるから、かえって本質が見えず騙されやすくある。

私たちはビッグバンも一つの仮説であるとみなしている。つまり、この現代物理学と天文学とが見出した世界像も、人間の立場から世界という現象を合理的に説明しようする一つの試み、仮説に過ぎないと思っている。もちろん、仮説だからといってでたらめであるというのではない。ただ、いずれ、さらにいっそうよりよく世界の成り立ちを説明する新しい仮説にとって代わられる有限の説に過ぎないに違いない。

しかし、世界を把握する仕方としては、人間は眼を通しての観察や数字による推測ではなく、もっと本質的にその絶対的な必然性を把握する能力をもっている。その武器とは思考である。人間は思考によって、目には見えない月の裏側や、天体望遠鏡では見えない宇宙の本質を捉えたりする。

それをもっとも徹底的に実行しようとしたのが、ヘーゲルだろう。今日においても彼を乗り越えることができた者はいないと思う。ヘーゲルの世界観はもちろん彼の「論理学」に示されている。おそらく日本でも誰も気づいた人はいないと思うけれど、彼の論理学はビッグバンという現象の論理的な把握以外のものではない。ヘーゲルはビッグバンの必然性を論理学で論証して見せているともいえる。

無から始まって絶対精神にいたる壮大な円環を展開して見せている彼のその論理学で明らかにしているように、彼は自分の世界像を、「世界はただ一つの種子から永遠に咲き出でる花にほかならない」と詩人のように美しく語っている。そして、この種子が、彼の哲学の基本概念である「概念」にほかならなかった。そうしてヘーゲルは世界を「概念的に把握」してみせたのである。

ヘーゲルが今日生きてビッグバンの理論を耳にするなら、かってアインシュタインが彼の相対性理論を天文学の観察によって実証したように、ヘーゲルは自分の世界観がビッグバンの理論によって確認されたと言うかもしれない。
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# by aowls | 2008-09-06 14:09 | ハ行

悲劇

悲劇においては、宿命的な行動にこだわる自意識が倫理的な正義にかなったものであること、その行為の正当化が根本的に認められることが大切なのであり、喜劇においては、少なくとも同様に、国家のあり方やその種類、国家を指導し操縦すること、戦争と平和、民衆とその倫理的な状態、哲学の堕落などなど普遍的な公共の関心事が主題に取り上げられるのである。

(美学ⅢS.535)
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# by aowls | 2008-09-06 14:07 | ハ行

喜劇

悲劇においては、宿命的な行動にこだわる自意識が倫理的な正義にかなったものであること、その行為の正当化が根本的に認められることが大切なのであり、喜劇においては、少なくとも同様に、国家のあり方やその種類、国家を指導し操縦すること、戦争と平和、民衆とその倫理的な状態、哲学の堕落などなど普遍的な公共の関心事が主題に取り上げられるのである。

(美学ⅢS.535)
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# by aowls | 2008-09-06 14:03 | カ行

哲学者の任務

また著作家、とくに哲学上の著作家の任務は、真理を発見し、真理を語り、真理および正しい概念を広めてゆくことであると言うことができる。ところが、この仕事がどのような仕方で行なわれているのかというと・・『法哲学序言』
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# by aowls | 2007-12-31 23:59 | タ行