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夜明けのフクロウ

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2020年 02月 11日

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 二十一〔特殊な意志について〕

§21

Dem reinen Willen ist es nicht um irgend eine Besonderheit zu tun. Insofern dies der Fall beim Willen ist, insofern ist er Will­kür, denn diese hat ein beschränktes Interesse und nimmt ihre Bestimmungen her aus natürlichen Trieben und Neigungen.


二十一〔特殊な意志について〕


純粋な(普遍的な)意志にとっては、何らかの特殊なことには関わりを持たない。意志の場合においては、それが何か特殊なことであるかぎり、意志はそのかぎりにおいては恣意である。というのも、恣意とは限界のあるものに関係をもつからであり、自然の衝動や性向から自らのあり方を決めるからである。


Ein solcher Inhalt ist ein gegebener und nicht absolut durch den Willen gesetzt. (※1 )Der Grundsatz des Willens ist also, dass seine Freiheit zu Stande komme und erhalten werde. Außerdem will er zwar noch mancherlei Bestimmungen.


そうした内容は与えられたものであり、意志によって絶対的に決定されるものでない。したがって意志の原理とは、意志の自由が確立され、そして保持されていることである。むろん意志はその他にもなお多くの決断を欲している。


Er hat noch vielerlei bestimmte Zwecke, Einrichtungen, Zustände u. s. w., aber diese sind nicht Zwecke des Willens an und für sich, (※2 )sondern sie sind Zwecke, weil sie Mittel und Bedingungen sind zur Realisierung der Freiheit des Willens, welche Einrichtungen und Ge­setze notwendig macht zur Beschränkung der Willkür, der Nei­gungen und des bloßen Beliebens, überhaupt der Triebe und Begierden, die sich bloß auf Naturzwecke beziehen;


意志はさらになお多くの定められた目的、組織、状況などを求めている。しかし、これらは意志そのもの本来の目的ではない。そうではなくて、それらは意志の自由を実現するための手段 であり、条件 であるという意味においての「目的」であるにすぎない。どのような組織や法律も、恣意や性向、そして単なる好みにすぎないものなど、一般的にはただ自然の目的のみにかかわる衝動や欲望を制限するために必要とされる。


z. B. die Erziehung hat den Zweck, den Menschen zu einem selbständi­gen Wesen zu machen, d. h. zu einem Wesen von freiem Willen.(※3) Zu dieser Absicht werden den Kindern vielerlei Einschränkun­gen ihrer Lust auferlegt. Sie müssen gehorchen lernen, damit ihr einzelner oder eigener Wille, ferner die Abhängigkeit von sinnlichen Neigungen und Begierden, aufgehoben und ihr Wille also befreit werde.


たとえば、教育 は、人間を一人の自立した存在へと、言いかえれば、自由な意志をもつ人間へと作り上げるという目的をもっている。この目的のために、子供たちには彼らの欲望に多くの制限が課せられる。子供たちは服従することを学ばなければならない。そのことによって、個人的な、あるいは自身の意志は棄てさせられ、さらには身体的な性癖や欲望への依存が抑制され、かくして子供の意志は自由に解き放たれる。


(※1)
「意志によって絶対的に設定された内容」とは外から与えられるものではないから、自由なものである。それに対して、生まれついた身体の欲望にもとづく意志などは、有限な内容をもち特殊な目的にかかわるから、それは意志は意志でも「恣意、気まぐれ Willkür」である。


(※2)
意志の目的とするところにも様々な内容と段階がある。もしそれが意志そのもの本来の目的でなければ、その目的は「意志の自由を実現するための」手段にすぎない。さまざまな制度や法律は、人間の生まれついての衝動や欲望、恣意や気まぐれを制限するために必要とされる。


(※3)
erziehen 育て上げる、仕込む、教育する
Erziehung 養育、躾しつけ、育児、教育


日本語では、ふつうには「教育」と訳されるけれど、ドイツ語の erziehen  には、「中から外へ引き出す」という意味がある。「教育」よりも「養育」の方が訳語としては的確でふさわしい。

「教育の目的は、人間を一人の自立した存在に、自由な意志をもつ人間を創ることである」という、ここに明らかにされているヘーゲルの教育観、その教育の目的と本質的な方法論についての定義は、どちらかといえば古典的で現代的ではないようにみえる。


しかし、教育や自由についてのこの考えは、ゲーテやシラーなどを生んだドイツ古典文化の黄金期を背景とするもので、また日本の伝統的な教育と相通じるものがあり、普遍的かつ本質的であって、現代日本の流行の教育論や自由観よりも高く深い。もし、これらが正しく理解され活用されるならば、現代日本の教育においてもなおその意義は大きいにちがいない。





# by aowls | 2020-02-11 21:06 | ハ行
2009年 06月 27日

国防軍

旧日本国軍の総括

去る九月二十九日に沖縄で十万人の県民が集まって、旧日本軍の強制による集団自決についての教科書の記述変更に反対する集会があったそうである。

当時の戦争に巻き込まれた沖縄の人々が、教科書においては「日本軍の命令によって強制的に集団自決させられた」とか「沖縄県民の集団自決に日本軍が関与した」とか「日本軍に集団自決を強いられた」とか記述されていたのに、「軍による強制」ではなく「集団自決に追い込まれた」というように変更されることになったことが問題の発端らしい。

そのことについて沖縄県民の中に反対している人が少なくないらしいけれども、正確にどれだけの数の沖縄県民が反対しているのかわからない。しかしこれは多数決の問題ではない。

今なおこうしたことが問題になるのは、この沖縄県民の「集団自決」の問題のみならず、かっての太平洋戦争そのものがいまだ国家的なレベルでもきちんと総括できていないからだと思う。相変わらずの国民性でないだろうか。いつまでも、旧日本国軍の悪弊を感情的に批判していても、あまり生産的ではないように思う。

総力戦が戦われていた当時の沖縄で、その過酷な軍事情勢の下において、非戦闘員である県民がアメリカと旧日本軍の戦闘行為に不本意ながらも巻き込まれ、そのために多くの人々が命を失うことになった。命を失うのだから不本意でないはずはないが、しかし、当時の沖縄県民も敵国アメリカに対する愛国心に燃え、旧日本軍隊と県民一心同体となって敵国アメリカと戦っていたことが想像されるのである。もちろん、戦争という過酷な状況だから決してきれい事だけには終わらなかっただろう。

それを戦後六十年たって、当時を知らない若者たちが、「軍隊が県民を強制して自殺に追いやった」とか言う。しかし、そのような観点で見るならば、それは単に沖縄県民のみならず、赤紙一つで徴兵され、過酷なジャングルでの戦場で命を失った多くの兵士たちばかりでなく、また、勤労動員で働いていたときに原爆を投下されて死に至った中学生たちも、要するに兵隊に駆り出された日本国の青年のほとんどが強制的に国家と軍隊によって「死に追いやられた」ということになる。

しかし、共産主義者などの一部を除く当時のほとんどの日本国民は、愛国心に燃えて「自発的に」敵国アメリカとの戦闘に参加したのだと思う。そして、たとえ国家による「命令」としても、多くの国民は国家のために従順に、むしろ多くの青年たちは誇りをもって敵との戦いに従ったのだ。むしろそれが真相ではないだろうか。それを自らの国家に対する誇りすら失ってしまった現代の人間が、自分たちの価値観を彼らに押しつけて、自決を強制されたなどといって「名誉の死」に殉じた人たちをおとしめているのではないのか。


そこには当時の日本人が一般にもっていた「生きて虜囚の辱めを受けず」といった死生観が死を軽いものとしたこともあると思う。近代の戦争についての無知や旧日本軍の教育の欠陥もあったと思う。ただ、そこに軍人による直接の命令があったのかどうかといっても、現代の戦争が根本的には国家間の総力戦である以上、国家による何らかの「強制」が働かないということはあり得ない。その状況は日本であれ、アメリカであれどのような国家も同じである。

そうした過去の厳粛な歴史を、後世の人間が「後知恵」で批判しても、正しく歴史を考察することにはならないと思う。また「集団自決の強制」が真実であるかどうかは当時の軍人や旧日本軍の名誉に関わる問題ともなる。

そのような歴史的な事実について、最近の沖縄集団自決冤罪訴訟による影響もあったのか、真実が明らかにされるなかで、高校教科書の記述の変更に影響をおよぼしたらしい。

「日本軍による集団自決の強制」の記述の変更についても、犠牲になった沖縄県民が軍隊命令によって強制的に集団自殺したことにすれば、軍属の死として戦後の遺族補償も得られやすくなるために、当時の守備隊長がそれに同意したということもあったらしい。


沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page018.html


しかしいずれにせよ、二十一世紀の現代においても、世界には多くの国家がそれぞれ独立して存在し、互いの国益を主張しあうような今日の人類の進化の状況にあっては、軍隊を完全に撤廃することはできないし、現実的ではない。

このことは、わずか六十年前の太平洋戦争の開戦時も、二十一世紀に入ったばかりの今日においても、その「厳粛な」歴史的事実には変わりがない。ただ狂信的な「平和主義者」だけが、不可能であるその現実を直視することができず、いつまでも盲信から自分を解放することができないでいるだけである。


現在のような人類の段階で、世界の諸国家がそれぞれ独立して排他的な対外主権を互いに主張しあうような世界史の段階において、国家が軍隊を否定したり放棄するということは現実的ではない。そうした選択をするとすれば、それはその国民が愚かで成熟した判断をもてないでいるからであると思う。


国家がその軍事的な実力を保持して、国家主権を完全に確立していない場合には、自国民が他国家によって拉致されるといったことが起きる。北朝鮮による日本国民拉致事件がそれを端的に証明している。旧社会党の非武装中立論者たちこそ「日本人拉致被害」の責任の一端の担うべきではないか。自衛の軍事行動すら否定する教条的な日本国憲法擁護論者や非武装中立論者たちは横田めぐみさんたちの涙の責任をとれるのか。

戦後の日本国民が、国家や軍隊に対して少なからずアレルギー症状を示すことにも無理からぬ面はもちろんある。日本は第二次世界大戦で、連合国軍に完膚無きまでに敗北し、しかも、その日本帝国軍隊が必ずしも民主的ではなく専制的で、封建的な階級意識をきわめて色濃く残した陰湿な面をとどめていたこと、また、軍隊組織が抑圧的で事大的で非人間的な軍人も多かったのも事実だろう。そのために一般国民が少なからず軍隊や軍人に反感的な感情を持つことになったとしてもやむを得ない。しかし、それもまた日本人自身の国民性の反映でもあったのだ。

しかし、あの戦争からすでに半世紀以上も経過しているのに、今日もなお、いつまでも国民が自らの国家と軍隊に対して不信と拒絶の感情をすら克服し得ていないとするならば、それは健全なことではない。それは指導的政治家たちの怠慢のせいでもあると思う。国家と国民の安全と幸福ために、一身を犠牲にして働く軍隊と軍人を尊敬できない国民は不幸である。

そのためにも過去の旧日本国軍の否定的な側面を全面的に客観的に批判的に総括するとともに、その一方で、たとえば、かっての神風特別攻撃隊に志願した青年たちの高貴な犠牲的愛国心は、今日においても限りなく貴重な価値あるものとして、その意義は正しく評価するべきだと思う。かっての旧日本国軍のもっていた崇高な精神的な遺産を、戦後の民主主義的な愛国心と結合することによって復活させてゆかなければならない。

国民が子供じみた軍隊アレルギーにいつまでもとらわれていれば成熟した完成した国家を形成することはできない。そうしたアレルギーから正しく治癒され解放されてゆく必要がある。

完全に民主化された新日本国軍が、専守防衛に徹することは、日本国民が完全な民主主義的な自覚をもった国民である限り、それは自明の前提なのである。

いつまでも、沖縄での旧日本国軍の「悪弊」を中途半端に批判にさらしておくのは生産的ではない。かっての旧日本国軍の参謀本部の作戦指導上の過ちや、陸軍と海軍の縦割りによる縄張り意識による作戦指揮系統の不統一による軍事戦略上の失敗や、また、それとも関係するけれども、満州国の関東軍における一部軍人の「暴走」などになぜ首相の指揮権が発揮できなかったか、(これは統帥権が天皇直属で、首相にはなかったことなどがある)などといった、かっての旧日本軍の犯した多くの失敗や否定的な側面があるはずである。

それを、戦争原因や戦争回避などもふくめて、国会は全国民的なレベルできちんと歴史的に総括し、その報告書を全国民に提示すべきだろう。旧日本国軍をただ全面的に否定しさることなく、たらいの水と一緒に貴重な赤子を流してしまうことなく、民主主義の観点から、その意義と限界をきっちりと総括して、それを民主主義国家の新日本国軍において再生してゆかなければならないのである。

# by aowls | 2009-06-27 12:09 | カ行
2009年 06月 27日

民主主義

沖縄県民の民主主義

先の「集団自決」に関する教科書書き換え問題で、沖縄県の一部の人たちは、多数を動員することによって、政治家や歴史家へ圧力をかけられると考えているようだ。教科書の内容の書き換えを、自分たちの要求する方向に変えるために、明らかに多数意見であることを誇示することによって政治的な圧力をかけようとしていた。

確かに民主主義は多数決によって意志決定が行われるけれども、それは必ずしも、多数決とされる判断が「真理」であるからではない。多数意見であるということは、ただ単に比較的に多数の人々がそのように考えているにすぎないことを示しているだけである。多数の判断が必ずしも正しいとは限らない。

実際にも科学の歴史は、大多数の信じている「常識」や偏見や迷信を、少数者が覆してきた歴史であると言ってよい。また、たとえばキリストの処刑に関しても、その糾弾と告訴がユダヤ人大衆の嫉妬に駆られてのものであることを知っていたピラトは、何とかイエスの命を救おうとしたけれども、結局、「多数の声」に押されて、イエスの処刑を認めざるを得なかったのである。

何が「真理」であるかといった問題について、神ならぬ人間の争いにおいては、最終的な判断基準を得られないことが多い。しかし、実際の生活においては何らかの意志決定を行わなければならないから、とりあえず便宜上、多数者の意見をもって問題を処理してゆくことを原則としているにすぎないのである。

しかし、後になってから、多数者の意見がまちがっていて、少数者の意見が真理であることがわかるということも事実としてある。そうした歴史的な経験から、現代の民主主義では、多数者の意見も誤りうるという謙虚な姿勢をとり、少数意見も尊重して、きちんとそれを記録して保存しておくのである。

先の「教科書書き換え反対」の沖縄県民集会では、ひたすら自己の見解が真実であることを前提にして、多数者の圧力によって強権的に書き換え変更を要求しているという印象を受けた。

たしかに、多数の意見、世論、一般常識というものは尊重されるべきであることはいうまでもない。多数者の見解が確率的にも正しい場合であることが多いだろう。また、何でもかでも少数者や特異な個人の「恣意的な」見解をいつでも尊重しなければならないということでももちろんない。

しかし、だからといって、多数の見解であるということだけをもって、「真理」であることを断定させようという姿勢は、論理的には、多数者の少数者に対する狂暴でもっとも悲惨な行為に行き着く。そこでは真理の秩序は失われて、理性の圏外にある恣意的な大衆の、時には暴徒と化した盲目的で狂信的な破壊活動に行き着く。

それは、フランス革命の末期や、スターリニズムの強制収容所、日本赤軍のリンチ事件、ポルポト・カンボジアでの大量殺戮、中国の文化革命における紅衛兵の青年たちの暴走などの実際の歴史が証明している。

民主主義の精神を、単に多数意志の結集による統治というルソー流の民主主義においてとらえるだけでは、それは往々にして悟性的で破滅的な結果を招くことになる。それは、人類から理性を失わせ、その獣的本能を解放させるだけである。

まして、経験も浅く、多面的な見方も十分にできない高校生男女を使って、かって毛沢東が「紅衛兵」を扇動し、教唆したようなやり方は、理性的な民主主義からはほど遠い。

沖縄県民の民主主義だけではなく、日本国民の民主主義は、ただ多数であることを目的とする小沢一郎民主党党首流の民主主義であってはならず、真理を目的とする品位のある理性的な民主主義であるべきである。そして、ただ単に多数であることだけをたのみとするルソー流の民主主義の限界を克服して行かなければならないのである。


旧日本国軍の総括

# by aowls | 2009-06-27 12:04 | マ行
2009年 06月 26日

沖縄問題と新日本国軍



沖縄問題と新日本国軍

先の記事(「旧日本国軍の総括」)で、pfaelzerweinさんより、以下のようなコメントをいただきました。昨日はブログを覗かなかったせいもあり、返事が遅れました。また、雑用で十分な時間がとれなかったこともあり、正確な必要十分な応答になっているかわかりません。ただそれでも、各論点ごとについて、とりあえずのご返事だけでもしておきたいと思います。
さらに論点の深まることを期待します。

①pfaelzerweinさんのコメント

沖縄問題を通した見解 (pfaelzerwein)

2007-10-14 17:07:43

A
ここに示されているのは、沖縄問題を通した、戦後処理への見解と、その国家観と思われます。

幾つかの疑問点を議論のために手短に挙げておきます。

「旧日本軍隊と県民一心同体となって敵国アメリカと戦っていた」のが事実でないとするのがこの問題の端緒ですね。つまり、本土民と琉球民の視点の差です。つまり、同じような差を朝鮮人や台湾人に認めるかどうかの疑問ともなります。そのような視点の根拠は何処にあるのか。その国家とは、民族的なものなのか、歴史的なものなのか、それとも?
B
「完全に民主化された新日本国軍」は、民主的な日本国とその機構に準拠しなければいけませんが、その民主性は、「名誉の死」に殉じた人や当時の軍人や旧日本軍の名誉を一切認めない事ではないのか?つまり、歴史的な敗北を帰した責任こそ問われこそすれ、イスラムテロリストと変わらない国家主義に身を投じたもの達を賞賛するのは誤りではないか?そこでは犠牲となった幾多の個人を指すのではなく、その各々の集団を指す場合、虫けらのように殺害された敗者達を尊敬するべきだろうか?

C
もし、当時の国家主義を根拠にそれを認めるというならば、それを根拠にした朝鮮人や台湾人の軍事恩給や慰安婦を含む国家奉仕の保障問題をどのように捉えるのか?

D
「日本社会党の非武装中立政策を現実的ではない」のと同じように「民主的に成熟した市民統制のとれた民主的な国軍」もただの夢想ではないのか?

E
そもそも、「高貴な犠牲的愛国心」こそ国家主義の賜物で、こうした国家主義を肯定する姿勢は民主主義に相反しないのか?歴史を顧みて尊重する姿勢を採るならば、戦後民主主義体制こそそれまでの歴史を総括したものであり、それを蔑ろにして歴史を顧みる価値はないのではないか?

F
最後にこの問題への私見を加えますと、沖縄は現在も米軍基地問題を主要な政治主題としているようですが、それならばその彼らの理想は、日本国軍の駐留なのか、台湾軍なのか、中共軍なのか?今でも、戦略的に見て米軍が最も信用出来る好意的なパートナーであるように思うのですが、どうでしょう。


②私の考え
A
この問題については、歴史をどう見るかですが、「現代人の視点、価値観をもって、過去の歴史を断罪するようなことがあってはならない」ということが眼目です。

大日本帝国憲法下の日本国統治についても、民主主義の観点、立憲君主制の観点からいっても、その立憲性の民主主義的性格にきわめて大きな欠陥があったのは事実であろうと思います。それゆえにこそ、軍部の独走を抑止することも、開戦を回避することもできませんでした。

「旧日本軍隊と県民一心同体となって敵国アメリカと戦っていた」
というのは事実としてそうであったということであって、それについての価値判断は別です。

旧日本国軍隊は、天皇制全体主義の体制で「一心同体」であったので、その性格は、民主主義の観点からは、軍隊の統帥権が首相に属していないという限界がありました。

大日本帝国憲法下の行政を、戦後の日本国民が民主主義の概念から批判的に総括していないこと、その能力のないことが問題であると思います。それが、沖縄問題や台湾問題、朝鮮問題に今なお決着をつけられず、清算できないでいることの根本原因であると思います。

なお、理論的には現代国家は民族や歴史をアウフヘーベンしているものです。


B

もっとも端的な例は、互いに正々堂々と戦い抜いた敵に対する敬意と本質的には同じです。
信じる対象や価値観は異なってはいても、それに忠実に誠実に純粋に献身した者に対する敬意です。

C
当時の国家主義を根拠に認めるのではありません。「朝鮮人や台湾人の軍事恩給や慰安婦を含む国家奉仕の保障問題」を含めて、戦前の国家体制を清算できないでいるのは、現代日本国民と国家の民主主義的な未成熟にこそ問題があると考えています。


D
「民主的に成熟した市民統制のとれた民主的な国軍」は夢想であるとは思いません。夢想に終わるか現実になるかは、教育と指導者と国民全体としての資質の問題であると思います。

E
戦後民主主義の欠陥の核心は、この戦後民主主義には「国家意識」が完全に欠落していることです。戦後民主主義のこの特異性のゆえに、それが自明に思われています。ここに戦後の日本国民の倫理的な退廃の根源があります。

F

現代日本国の最大の悲惨は、pfaelzerweinさんがおっしゃられているように、沖縄県民にとって日本国軍の駐留ではなく「米軍が最も信用出来る好意的なパートナーである」と見られているこの日本の現状です。







# by aowls | 2009-06-26 19:06 | ア行
2009年 06月 26日

沖縄



沖縄問題と新日本国軍

先の記事(「旧日本国軍の総括」)で、pfaelzerweinさんより、以下のようなコメントをいただきました。昨日はブログを覗かなかったせいもあり、返事が遅れました。また、雑用で十分な時間がとれなかったこともあり、正確な必要十分な応答になっているかわかりません。ただそれでも、各論点ごとについて、とりあえずのご返事だけでもしておきたいと思います。
さらに論点の深まることを期待します。

①pfaelzerweinさんのコメント

沖縄問題を通した見解 (pfaelzerwein)

2007-10-14 17:07:43

A
ここに示されているのは、沖縄問題を通した、戦後処理への見解と、その国家観と思われます。

幾つかの疑問点を議論のために手短に挙げておきます。

「旧日本軍隊と県民一心同体となって敵国アメリカと戦っていた」のが事実でないとするのがこの問題の端緒ですね。つまり、本土民と琉球民の視点の差です。つまり、同じような差を朝鮮人や台湾人に認めるかどうかの疑問ともなります。そのような視点の根拠は何処にあるのか。その国家とは、民族的なものなのか、歴史的なものなのか、それとも?
B
「完全に民主化された新日本国軍」は、民主的な日本国とその機構に準拠しなければいけませんが、その民主性は、「名誉の死」に殉じた人や当時の軍人や旧日本軍の名誉を一切認めない事ではないのか?つまり、歴史的な敗北を帰した責任こそ問われこそすれ、イスラムテロリストと変わらない国家主義に身を投じたもの達を賞賛するのは誤りではないか?そこでは犠牲となった幾多の個人を指すのではなく、その各々の集団を指す場合、虫けらのように殺害された敗者達を尊敬するべきだろうか?

C
もし、当時の国家主義を根拠にそれを認めるというならば、それを根拠にした朝鮮人や台湾人の軍事恩給や慰安婦を含む国家奉仕の保障問題をどのように捉えるのか?

D
「日本社会党の非武装中立政策を現実的ではない」のと同じように「民主的に成熟した市民統制のとれた民主的な国軍」もただの夢想ではないのか?

E
そもそも、「高貴な犠牲的愛国心」こそ国家主義の賜物で、こうした国家主義を肯定する姿勢は民主主義に相反しないのか?歴史を顧みて尊重する姿勢を採るならば、戦後民主主義体制こそそれまでの歴史を総括したものであり、それを蔑ろにして歴史を顧みる価値はないのではないか?

F
最後にこの問題への私見を加えますと、沖縄は現在も米軍基地問題を主要な政治主題としているようですが、それならばその彼らの理想は、日本国軍の駐留なのか、台湾軍なのか、中共軍なのか?今でも、戦略的に見て米軍が最も信用出来る好意的なパートナーであるように思うのですが、どうでしょう。


②私の考え
A
この問題については、歴史をどう見るかですが、「現代人の視点、価値観をもって、過去の歴史を断罪するようなことがあってはならない」ということが眼目です。

大日本帝国憲法下の日本国統治についても、民主主義の観点、立憲君主制の観点からいっても、その立憲性の民主主義的性格にきわめて大きな欠陥があったのは事実であろうと思います。それゆえにこそ、軍部の独走を抑止することも、開戦を回避することもできませんでした。

「旧日本軍隊と県民一心同体となって敵国アメリカと戦っていた」
というのは事実としてそうであったということであって、それについての価値判断は別です。

旧日本国軍隊は、天皇制全体主義の体制で「一心同体」であったので、その性格は、民主主義の観点からは、軍隊の統帥権が首相に属していないという限界がありました。

大日本帝国憲法下の行政を、戦後の日本国民が民主主義の概念から批判的に総括していないこと、その能力のないことが問題であると思います。それが、沖縄問題や台湾問題、朝鮮問題に今なお決着をつけられず、清算できないでいることの根本原因であると思います。

なお、理論的には現代国家は民族や歴史をアウフヘーベンしているものです。


B

もっとも端的な例は、互いに正々堂々と戦い抜いた敵に対する敬意と本質的には同じです。
信じる対象や価値観は異なってはいても、それに忠実に誠実に純粋に献身した者に対する敬意です。

C
当時の国家主義を根拠に認めるのではありません。「朝鮮人や台湾人の軍事恩給や慰安婦を含む国家奉仕の保障問題」を含めて、戦前の国家体制を清算できないでいるのは、現代日本国民と国家の民主主義的な未成熟にこそ問題があると考えています。


D
「民主的に成熟した市民統制のとれた民主的な国軍」は夢想であるとは思いません。夢想に終わるか現実になるかは、教育と指導者と国民全体としての資質の問題であると思います。

E
戦後民主主義の欠陥の核心は、この戦後民主主義には「国家意識」が完全に欠落していることです。戦後民主主義のこの特異性のゆえに、それが自明に思われています。ここに戦後の日本国民の倫理的な退廃の根源があります。

F

現代日本国の最大の悲惨は、pfaelzerweinさんがおっしゃられているように、沖縄県民にとって日本国軍の駐留ではなく「米軍が最も信用出来る好意的なパートナーである」と見られているこの日本の現状です。






# by aowls | 2009-06-26 12:18 | C  人倫